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どこの先生であるとか、どういうふうに生徒を追い込んだとかの問題ではなく、「先生」を先生として見れなくなる時代になってしまったのだろうか。
謝ってすむ話じゃないよ かつては子でもあった記憶をたどると、何につけ相談しろと言われるほど相談しずらい気持ちは誰にでもあった。そう考えると、子をもつ親として、こうした事件が起きると、一体何のために子を学校にいかせるのだろうかと言い得ない疑問が湧いてくる。 どうして学園ドラマが人気を博すのか?現実に存在しない、あるいは極めて稀な熱血教師の存在への淡い願望なのだろうか。 もし、今回のような事件が、氷山の一角であるとすれば、何を勘違いして教師になったのか分からない輩のサラリーマン感覚にどっぷりひたった言動を、ローカルな利害関係なしに監査する仕組みが必要なのかも知れない。 仕組みはいくらでも考えられるとしても、正直そこまでしなければいけない教育現場であるとすれば、やはり子をもつ親としてやりきれない。 教育者としてお金しか、教育に従事することの対価であるとみえないなら、教師などになるべきでないだろう。対価として金銭の多寡を計算しながら子育てしているか?金銭の損得ではなく、育っていく子が親に対していろいろな表現や態度で育ててくれてありがとうという気持ちを示してくれること、大きくなった時小さい頃叱ってくれてありがとうとほんの少しでも思ってくれるなら、それだけでおつりがくるくらいだ。 同じように、厳しい教師であっても、教え子たちがいつか一緒に過ごした時期を懐かしく思い出してくれるだけで、ほかの職業にはない尊さがある、はずじゃないのだろうか。